『私の古寺巡礼』白洲正子著講談社文芸文庫

近頃お寺参りが少し好きになりつつある。信仰を持たない事は、どこか後ろめたい気持ちがある。心強い先達がここにいる。

 

「古寺を訪ねる心」なんてまったくない持ち合わせていなかった。無心に手ぶらで相手が口を開いてくれるのを待つ。

日本の歴史や古典を多少知ったのも歴史や文学の側からではなくお寺と美術品に興味を持ったためです。

自然信仰のなか、6世紀ごろ仏教が入ってきた。見事を建築や美術品を携えて。西国三十三所巡礼は、病気がちだった私をすっかり健康にし日本の文化の伝統というものを大づかみに身体で覚えた。信仰がなくても歩けばいい。まずやってみること。なっているうちに何か発見できる。十一面観音を求めて歩いた。聖林寺の十一面観音が好き。もしその気にさえなれば向こうの方から必ず語りかけるものがあるはず。

西行が詠んだ歌「何事がおはしますかは知らねども、かたじけなさに涙こぼるる

 

お水取りは、東大寺ニ月堂の本尊十一面観音にささげる香水を「若狭井」から汲むことが中心。その水は若狭の遠敷川から来る。お水送りと言われる。

 

西国三十三所二十九番札所京都府舞鶴市の松尾寺馬頭観音菩薩(先日京博の西国展で見た)

その隣の中山寺馬頭観音。若者を助けたという伝説がある。

 

日本の庭ほどはかないものはない。半年放っておけば自然に還元してしまう。だからこそ日々の手入れが大切であり美しい庭というものには持ち主の愛情だけではなく人格のよしあしまで現れる。

回峰行の信者たちはそれぞれの行者さんの生き方日常に暮らしぶりを見て己が人生の鑑としている。本当の信仰とは、個人的なものではないか。

西国三十三所巡礼について。

人間は歩くことによって多くのものを得る。しまいに歩けなくなっても、あの時の体験によって私は心の遍歴は生涯続けることができるだろう。

人間一生誠に僅かな事なり。すいた事をして暮らすべきなり